2010年02月18日

【読書感想】「快楽のために」奈良林祥・著(昭和50年発行)

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奈良林祥(ならばやし やすし)という著者はwikipediaによると、1919年(大正8年)4月22日−2002年(平成14年)9月12日)の性医学者・医学博士。性の性生活の相談を直接受ける日本で初めてのカウンセリングルームとして開設し直したことでも有名。だそうで、1970年代に出版した「How To Sex」シリーズが大ベストセラーになったそうです。

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(これ裏表紙)


今で言うとアダム徳永氏みたいな感じかな? と思い、アダム徳永(以下、アダ徳と略)のwikipediaと見比べようとしたら、信じられないことにアダ徳のwikiが無い。真っ先にwikiページができそうな人物なのに何故…。

アダム徳永とは、「スローセックス」を提唱する(怪しい)オッサンである。「男中心の雑なセックス」のことを「ジャンクセックス」と名づけ、それとは真逆の、女体の本当の性感を開く「スローセックス」を独自に開発し、教室を開いて2時間4万円くらい(あと超高いDVDとかで)で伝授しているセックスの先生である。
と、これは私の若干の悪意の含まった解説ですが、アダ徳氏本人の自己紹介の言葉では、
「セックスは本能でできますが、それは生殖行為にすぎません。尊厳ある人間のセックスはもっと悦びと至福に満ちたものです。セックスはあらゆる習い事と同じで、テクニックの習得が必要なのです。 私は『セックススクール・アダム』を開設し、皆様に幸せなセックスを実現できるようサポートさせていただいています」
ということです。


「周りからしたらどうでもいいけど、自分にとってはどうでもよくない問題」というのが、誰でも五つや六つはあると思う。それの一つに、私にはアダム徳永の問題があり、彼のことになると熱くなってしまい話が長くなるのですが、今回はそれを全て書きたいと思います。(「快楽のために」奈良林祥・著については一旦おいておき、アダム徳永氏について書きます)


今から5年前、仕事先でアダム徳永氏ご本人にお目にかかった時、猛烈なる怪しいオーラを噴出していた。その時の私の日記から引用した以下のものを読んでいただきたく思います。「先生」がアダム徳永氏で、アヤちゃんというのはその時モデルになっていたAV女優の女の子です。
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 まず出会い頭の開口一番、先生は真正面から私をビッと指差し「今日、ボクと仕事をしたこと、アナタ数年後に自慢になりますよ!」と宣言された。初対面である。強烈なうさんくさオーラに足元がふらつく。
 先生はとにかくよく喋る。自身のセックス理論を繰り返し繰り返し同じ事何度も言ってきて、その場でほとんど覚えてしまうほどだった。先生は、『最終的には触らなくてもイケる』と言う。
 その理論を証明するかのごとく、先生は全裸で仰向けになっているアヤちゃんの股間にタオルをおもむろに掛け、その上に正常位の姿勢で乗っかった。先生はズボンを履いたまま。
 つまり、タオルとズボンがあるので性的接触はない。何するのかな?と思った瞬間、先生は突然そのままピストン運動を始めた。真剣な表情で汗をかきながらズッコンバッコンする先生。アヤちゃんは優秀なAV女優なので、それに合わせるように「アンアン」とあえぐ。
「あっ!先生、それはなんですか?手品ですか? まるで、先生のオチンポが、タオルとズボンを貫通しているかのようです!」
「すごいです!先生のオチンポは入っていないはずなのにアヤちゃんは気持ちよさそうです!」と私が実況中継すると、盛り上がって来た先生は、今度はアヤちゃんをワンワンスタイル(四つんばい)にした。
 すると、「こういう事も可能なんです」と言って、アヤちゃんのおしりから50センチ後ろの位置で立てひざになり、自分の両手を自分の頭の後ろにやって腰を振り始めた。

 つまり、全く二人は接していないのです。なのにさも後ろから突かれているかのように「アア〜ッ気持ちイイ〜」と言っているアヤちゃん(空気読めすぎ)。一人で腰を振りまくる先生(汗ダク)。

 その二人の姿はどうしようもなく可笑しかった。けど、先生は真剣なのでなんか笑いづらかった。私の担当編集者の男性も横で笑いを堪えているし、それを見てまた可笑しくなって笑いを堪えれば堪えるほど、自分の体が痙攣した。
[ちなみにこの4人(先生・アヤちゃん・編集者・私)以外は人は誰もいません]
「すごいです!アヤちゃんのお尻と先生の股間の間に、巨大なチンポが見えるかのようです!!」と実況すると、更に先生の腰の動きはスピードを増した。

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本当に相当面白かった。笑い死にするかもって本気で思ったの4回くらいあるけど、その中でも暫定1位の瞬間をアダ徳先生は提供してくれた。昔だったら「天才たけしの元気が出るテレビ!」のワンコーナーでオモシロ一般人として高田順次にレポートされるレベルの人材だと思った。
この5年前の時点でけっこう有名だったけど、もっといろんなメディアでアダ徳が見たい! そう思った。

その後、お笑い芸人(ブラマヨ小杉・小島よしお)がテレビで紹介した事で火がつき、2008年頃には女性誌や中高年誌で幅広く紹介されるようになった。「東京1週間」から増刊で『まるまる一冊アダム徳永』が出て、アダ徳本人が表紙にバーンと出ているムックがコンビニの男性誌棚でTarzanとかと一緒に並んでいた。その中でリリーフランキーと対談したりしてオシャレ度が加速し、巷ではスゴイ先生ってことになってきたのだった。
私は、アダ徳をもっと見たい、と思っていたくせに、実際はアダム徳永がワッショイされている記事を見ると、何か、猛烈な違和感を感じるようになったのである。


とりあえず2008年7月頃、その東京1週間増刊「アダム徳永責任編集『adam』for men」をコンビニで1000円にて購入し、読んでみた。

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一般的とされているセックス(セックスをしている人なら誰でも経験のあるであろう惰性的性交)をまず否定するところから始まる。「それはジャンクセックスと言い、間違ったセックス、自分の提唱するスローセックスが正しい」という言い方をしている。
アダ徳の提唱する「スローセックス」っていうのは、愛戯(前戯のこと)を30分以上、挿入を30分以上することであるという。その中でもいろいろキスの仕方や触り方(アダムキス・アダムタッチと呼ぶ)があって、全体で2〜3時間はかけるのが理想らしい。

セックスって人に確認したりするものじゃないし、だから「あなたのしているセックスは間違っている」と言われてしまうと、妙な不安感が心に湧いて、「スローセックスが良いんだ」と思ってしまう人がいて当たり前である。そういう風な心理になるようにその本が作られていることに違和を持った。女性誌に「あなたのカラダは彼に愛されてません。世の中にはもっとすごいキモチいいセックスがあるのです。あなたはそれを知らないのです」とか書いてあったら、女の子たちはビックリして信じちゃうと思う。そんで、スローセックスだなんて実現がかなり難しいもの(習得するのに2時間4万円の講義を7回以上通わなきゃいけないみたいなことになっている)の存在を教えてもモンモンとさせるだけなんだから、それはツミな感じがする。

実際に、ネット上でアダム徳永関連の記事を見ていると「スローセックスを彼氏にやってもらいたいけど、どうやって伝えたらいいか分からない」という女性のコメントを目にすることが多い。
確かにそこが一番の難関である。金髪でラーメン大好き小池さんに似てるオッサンが発案したやり方でアタイの体いじくってほしい、なんて、彼氏や旦那になかなか言えないと思う。言われたほうの彼氏や旦那も、そうか、と言って受け入れられるだろうか。もしデキたとしても、セックス中、二人のあいだにアダムの顔がちらつきそうである。
アダ徳は「スローセックスをパートナーに伝える方法」でまた一冊本が出せる。


スローセックスには、「カワイイね」とか女性をとにかく誉める、という決まりもある。とにかく女性を果てしない快楽に導くには、まず女性の心の壁を取り払って開放させるっていうのが大事だからだそうです。
確かにそうだと思う。
女は、体型や見た目にコンプレックスを持っている場合、好きな人とのセックス時は余計にそっちに気がとられてしまい集中することができず快楽が半減するとは思う。コンプレックスは胸や肉づきや女性器の具合など、人それぞれである。それに、自分はすっごくカワイイと思ってる女の子もいるし、一概に容姿や服装を誉めるだけじゃ、アダ徳の言う「効果」はあまりないと思う。
例えば太ってる女性が自分の肉を気にしてて、それが原因で快楽を感じられないとき、一番効果的なのは、男性が「君のおなかのお肉もかわいいよ」と言うことである。
果てしなく快楽を感じさせたいから、その場でおなかのお肉を誉めるとする。だけど、本当は痩せて欲しいと思っていたら、そこに矛盾が生まれる。そこで快楽を優先させ、ハラの肉を肯定したら、女性のほうは「彼はこのくらい太ってる私が好きなのか」と思うはずだ。快楽を与えることを優先させることで、そもそもの関係性が崩れてく危険性がある。
セックスの時と、日常はやっぱり別なのである。女に快楽をもたらすには、具体的な「俺はお前のココに興奮する」というセンテンスが必要である。
そこで、日常の自分の考えから乖離させすぎず、セックス時に女性に自信を持たせ、少しでも快楽の扉を開けるには、女性器そのものを誉めるのが一番良いと思う。キレイとかかわいいとかにおいがたまらないとか、女性器だけを誉めるのである。そして、女性器に興奮するのである。己の女性器を好きな相手に見せて興奮されて、うれしくない女はそもそもセックスに向いていないと断言したいくらいである。

村西とおるもラジオで「女性器に向かって『ナイスですね』と言え」と言ってた。それ以外の、それ以上の言葉はないとのこと。「ナイスですね」はちょっとあれだけど、「女性器を誉める」という点は賛同したい。村西とおるはアンチ・アダム徳永の姿勢であるとラジオで言っていた。
村西とおるは、女の人にどうすればいいか聞いてそれをちゃんとやって、「最後にちょっとお邪魔いたします(挿入)」という精神でセックスをしろと言っている。女体快楽中心のセックスというのは、アダ徳と同じだが、アダ徳は「自由自在に射精をコントロールできる能力を持つことが、男性に課せられた責任なんです」とか言っちゃうのです。
アダムはとっても、DOUTEIの匂いがするのである。男の理屈っぽさが全開で、女性を大切にしてるという態で、結局は女体快楽を支配しようとする術を模索していて、「女性に負けたくない」というコンプレックスを感じてしまう。対して村西とおるは、「女の性欲は男がかなうもんじゃないほど強い。だから最後にちょっとお邪魔いたしますの精神を忘れるな」と説く。その通りと思う。女の性欲ってハンパねえぞexclamation×2

そんな、村西とおる派のわたしが思う、「良いセックスをする男」は、女性器自体に興味があり、興奮できる男である。「ジャンクセックス」になってしまうのは、女性器に興味がないからだと思う。
それに加えて、現在流行りの「短時間」(時間節約・1分でできる深イイSEX)で確実にイカせることができたら、セックスの王者と呼ばれていいんじゃないだろうか。


ひらめきちょっと休憩… ここからまた長いですひらめき


とにかくアダム徳永のことを知れば知るほど、疑念と違和が潮の如く吹き上がり、私はアダム徳永への執着していった(もう虜)。
そして先日行われたロフトプラスワンでは初のアダム徳永トークショーにもローソンでチケット買って一人で行った。


5年ぶりのアダム徳永。自信に満ち溢れ、意外にもうさんくさオーラが半減しているように見えた。


来場者には【スローセックスの定義】がプリントされた小さい紙が配られた。


その【スローセックスの定義】の一部

セックスは神様からの最高のプレゼントであり、
崇高で尊厳ある行為。
それを実践するのがスローセックス



愛と性エネルギーを交流させ、
人生に喜びと幸福をもたらすのがスローセックス



前戯15分、交接15分以内のセックス
欲望の処理を目的としたセックス
相手を無視した自分勝手なセックス
これらのジャンクセックスと対極をなすのがスローセックス



などなど、あと、女が演技しなくても本当の快楽を得られるのがスローセックスとか、とにかく「AV的」な男よがりのセックスはダメ!っていう教えが書いてありました。

そして「私がするSEXが本当のSEXです」と100人近い観客の前で普通に言ってて驚いた。本当のSEXってなんだヨ…。

アダム徳永のセックスが本当にいいのか、やったことないしやるつもりがないから、判定のしようがないっていうのも、納得がいかないなと思った。「なんでアダムさんのSEXだけがホンモノなんだよ」ってつっこんだところで、「じゃあ試してみてください」って言われたら、「結構です」って言うしかない。だってヤリたくないもん! これは、相手が言うこと聞かないだけで「アンタ地獄に落ちるわよ!」っていう細木数子のやりくちと同じなんじゃないのかと思った。
アダ徳が何か言うたび、観客は笑ったり歓声を上げる。みんなおもしろおじさんとして話半分に楽しんでる、あと本気で習ってる人も何人かいた。
たまにアダムの言うことに「え〜?」と声を上げる人には、立ち上がって指を指し「そこに不審者がいる!」とか言うアダ徳。完全に細木数子臭がアップしている。一応笑顔だけど、自分の意見を否定されることにすごく反応する過敏さをうかがわせた。

そしてアダム徳永と一緒に壇上に上がっている司会者及びコメンテーター(男性3名)がアダム信者という立ち位置だったのも、イベント自体の「アダム絶対支持風味」を一段と上げていた。とにかくみんなでアダム徳永を持ち上げる会みたいな感じがした。敢えて「アンチ」として参加しているから自分はこう思うのか、とにかくアダム本人が一番楽しんでいるという風情を受けた。


アダ徳が最近考案した「連ドラSEX」というのがあると言ってた。連ドラセックスっていうのは、12回くらいにわけて、起承転結みたいにするセックスなんだって。つまり射精しない日があったり、軽めの射精、そして最後はドラマチックに射精、みたいな。
ということだと思うんだけど、アダ徳は「連ドラセックス」っていう言葉を思いついただけのようで、ちゃんと分かりやすく説明していなかったので、よく分からなかった。
あと、ズッコケたのは、「モーニングセックス」というもの。刺激的でマンネリを脱却するにはとても効果的なセックスという。なんだろう?って思ったら、朝勃ちを利用するセックスのことだったexclamation
そんなのその辺の大学生カップルみんなやってんだろ!ってそこはまじで怒りがわきかけた。トークショーで2500円(ドリンク別)払ってんのに、なにがモーニングセックスだよ!(って、こっちも腹立つためにわざわざ来てるんだけど☆)

あと、「シネマセックス」(映画館でセックスすること)とか言ってた。映画館でセックスってもうわざわざ言うことでもないくらい、普通のことだと思うのだが…。個人的にはシネマセックスは未経験だが、斬新とは思わない。でも、そのトークショーでは、「なんと斬新な!」という感じでみんな聞かないといけなくなっていた。アダム徳永への「ツッコミ」を会場やこうしてブログで言うことは、野暮なのである。野暮ってことになってしまっているのである。

私は、このトークショーで、自分のアダム徳永へ感じる違和からなる執着の原因が分かった。
アダム徳永は、たぐい稀なるとてつもなく面白いオッサンである。
しかしそれは、ツッコまれてナンボ系のおもしろさであり、アダム徳永が言っていることをそのまま「そうですか、すごいなあ」と自分の生活に取り入れてしまっては、その面白さは全く活きずに、どんどん宗教じみた風合いを持って別次元のモノになっていってしまう。

元気が出るテレビの「エンペラー吉田」を思い出してほしい。
入れ歯が外れながら「偉くなくとも正しく生きる」という名言を残した一般人のおじいちゃんである。
あの人は、たけしのテレビ番組で高田純次にイジられていたから、面白かったのである。エンペラー吉田本人が、「偉くなくとも正しく生きる」という己の格言とその人気に異様な自信を持ち、本を出したり布教活動を始めたら、せっかくのエンペラー吉田の面白さはゼロになってしまう。

アダム徳永氏はもともと教員系の人らしく、「人に教える」というのがベースになっているっぽいので、エンペラー吉田と比べるのはまた少し話が違うっちゃ違うのだが、私は「エンペラー吉田」スタンスで、アダム徳永という人をメディアで見たかったのである。
それが、微妙に違う感じでメディアで取り上げられるようになっていて本当に残念。
あんなにおもしろいのにもったいない! それが私の、自分でも分からなかったアダム徳永への執着≠フ理由であった。

私はこれからも「アンチ・アダム徳永」のスタイルのまま、アダ徳研究のために、アダ徳の本やDVDを購入し、これからもイベントに通うと思います!


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そして、やっとここから本題に戻り、「快楽のために」奈良林祥・著の感想です。

奈良林先生(以下、敬称略)はまず、「よくけだもののような≠ニいう表現が用いられるが、虫けらといわれるような生き物の愛の行為をみていると、つくづく人間のいやらしさを逆に教えられる」という。
SEXが終わると、子孫を産むメスの栄養分として自分の体を食べさせるカマキリのいさぎよさに触れ、「男のSEXとは女のSEXを満たすためにこそあるという、こんなことすら理解できない男に、カマキリの爪の垢でも飲ませてやりたい。」と、憤慨のまえがきから始まる。

「独りよがりな男性本位なSEX」を嘆き、男達よそれを改めろ、という姿勢は基本的にアダム徳永と同じであるが、アダム徳永が前戯のことをを「愛戯」と呼び替えたのとは違う形で、奈良林は「愛戯」という言葉を用いている。

目をみつめたり愛をささやきあったりすることで性的興奮を覚えることを「前戯」とし、触覚、味覚(つまりペッティングやフェラ・クンニ)での愛情表現を「愛戯」(ラブ・プレーと読む)としている。
これはそもそもはドイツ人の性学者ヴァン・デ・ベルデが提唱したものらしく、奈良林「ヴァン・デ・ベルデ先生」と呼び、ベルデの著書「完全なる結婚」(当時大ヒットしたらしい性生活バイブル)を支持している。この本「快楽のために」が書かれた1970年代には前戯と愛戯がいっしょくたに同じものになってしまったという。
奈良林先生が言いたいのは、とにかく愛し合っているからこそ「愛戯」があって「性交」がある。性交を円滑にするために愛戯があるんじゃなくて、愛戯が華麗に発展したところで自然に性交が生まれる、それが愛戯と性交の正しい理解であると主張している。
そしてアダム徳永と真逆なのは「愛戯(ラブプレー)に理屈は不要である」と言っている点である。

「やれ性感帯がどうの、何分くらい愛撫すればいいの、などと考えながらどうこうするなどというのは、もはやラブプレーの名に値しない愚行でしかない」と言い切っている。
そして「初夜を迎える若いカップルに言うことがあれば唯ひとこと、『無心でうれしさを爆発させて、じゃれ合っちゃいなさい』ということで足りるはずだ」とのこと。
確かに!

そして言葉による愛戯はサイコ・ペッティング(精神的愛撫)の領域とされ、絵でいえばデッサンの如く、基本中の基本だという。
臆せず、以下のような言葉を言うといいと説く。
「好きだよ、離すもんか」
「可愛いよ、お前さんは」
キミは珍丁花みたいな女性だな
こういう言葉を言えない男のことは「所詮ホンモノのSEXとは無縁の衆だな」と厳しいひとこと。
ホンモノのSEX≠ニいうのも、アダム徳永と同じフレーズだが、なにかどこかしら違う。アダムはアダムのSEXだけがホンモノって言ってるから、なんか意味がちがう。

普段、キザなことを言わない男性に「珍丁花みたいな女性だな」と言われたら、よくわかんないけどなんかシビれちゃうね。ちんちょうげってどんな花だっけ? わかんないけどッ なんかウレシイッ ってかんじ。
この本の中でも一番シビれたのは、以下の文である。

女が先にイッてしまった場合の話
その時は、男は心のうちに、ほのかな勝利感のようなものを覚えながら、愛戯をやめ、女をやさしく胸の中に抱いて、しばらく横たわってやることだ。馬鹿な奴、お先に失礼なんてしやがって≠ネどと、小さくささやいてやるのもいい。ともかくも、女がオーガズムのあとの無反応期(男に比べればずっと短い)のけだるい快よさの中にある間、そっといたわってやるゆとりが男にはほしい。

シビれますな。
「お先に失礼」っていうのがいい。村西とおるの「最後にちょっとお邪魔いたします」に通ずる、わびさび。

他にも奈良林祥先生は、セックス観にはその個人の育った家庭環境からの影響なども言及しており、かなり興味深いので、奈良林先生の本をこれからもチェックしていこうと思う。ちなみにこの本は高円寺のZQというイケてる古本屋さんで52円でたまたま購入した。
(ZQは久しぶりに行ったらかなりハイクオリティな顔出し看板ができていたり、せんとくんグッズが充実していましたexclamation×2


というわけで、まだまだ書き足りないのですが、今回はこのへんで!
posted by tabusa at 03:13| 読書感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする