2012年09月24日

2つめ〜

日記、今日は2個め〜

これを見て、依存的で過干渉なお母さんとの親子関係と同じだなって思った。


B先生は「親、世間」で患者は「子供」。多罪大量処方は「依存的で過干渉なお母さんとの関わり」。精神薬を覚せい剤のように使うこと、は、「お母さんと離れたって私の人生がよくなるわけじゃない」と思い込んで「お母さんとのことは、お母さんとの間で解決しよう」としてる状態。体調が悪くなるほどの量の薬を飲みながら、健康になろうとしてる状態。

いくら「減薬しましょう(お母さんとの関わりを減らしましょう)」と言われても、最初は信じられない。「多剤大量処方(お母さんと一緒にいること)」が、自分の唯一の道だと思い込んでるから。「そういうもんですよ」って生まれたときからそれですごしてるから、洗脳もなかなか解けない。この動画を見て、同じだなーってすごく思いました。
posted by tabusa at 08:05| Comment(2) | ノノシット関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

遺恨を残す親は赤ちゃん

最近は、昔のことを思い出して腹が立つってことほとんどないんだけど、ハンドメイドで可愛い小物を作ってる人のブログを読んでて、その人の娘(小学生)が自分で縫ったポーチを紹介してるのを見て思い出した。そのポーチは縫い目がガタガタなんだけど、それを含めて本当にかわいい。自分で欲しいものを、気に入った布で作って、それを使うって素晴らしいことだなって思った。
私、中1のときに家庭科でシャツを縫った。ものすごく難しくてうまく仕上がったわけじゃないけど、なんか愛着が沸いて「これ着よう〜!」って家ではしゃいでたら、母から「そんなもん、外に着ていくな」って言われた。びっくりして反抗したら、そんな自分で縫ったものは外に着ていくものじゃないって言われた、ことを思い出した〜。そのとたん、気に入ってたシャツがものすごいゴミに見えて、確か捨てちゃったんじゃないかな。

ひどいな〜〜〜〜〜〜、中学生の私、かわいそう。かわいそうでかわいそうで、「かわいそう!」って気持ちがあふれちゃって、どうしよう〜ってなった。とりあえず、記憶の中の「悲しい気持ちになってる中学生の私」のところにいって慰めようとしたけど、向こうは私の存在には気づいてないからどうにもしようがなかった。気づいてても慰めようがねえ〜。「お母さんの言うことなんて無視していいんだよ」なんて未来の自分にいくら言われても、悲しみは消えないわ。あれから、裁縫が大嫌いになってしまったんだよね。
あのとき、母が「いいね、よかったね」って言ってくれたらどうなってたかな。裁縫が好きになって、もしかしたら仕事にしてたかもしれないし、外に着て行って誰かに「変なの」って言われてやっぱり裁縫が嫌いになってたかもしれない。

母は洋裁をして服を作る人だったのに、けっこうな雑さ加減の縫い目のものでも着てる人だったのに、なんであんなこと言うんだろう? 
今、生後6ヶ月の私の娘が大きくなってなにかを手芸で作って「これ使おう〜」ってはしゃいでることを想像した。それ自体がいとおしすぎるし、「よかったねえ」って気持ちしかわいてこない。例えそれがぐちゃぐちゃの仕上がりであっても、喜んでる人に向かって「そんなもん外で使うのヤメロよ、恥ずかしい」とか言えないんだけど。

裁縫はいまも苦手だけど、母が苦手な編み物は好きになった。だからもういいじゃない、って自分に言い聞かせてみたりした。
でも、どう思考しても「あの時の私かわいそう。お母さんヒドイ。むかつく」って気持ちが消えない!

お母さんはリメイク的裁縫が好きで、私にも「そういうおしゃれさ」を求めてきた。「あんたも着れなくなった服は自分でアレンジしたりしてさ〜お金をかけなくてもおしゃれってできるのよ」とか。「自分で作ったもん着るな」って言ってたのにいまさら何言ってんだってよく思って、ソッチ方面には一切興味が持てなかった。お母さんはたぶん、自分の娘に対して過剰なほどに「裁縫でおしゃれなモノを作れる人になってほしい」っていう気持ちがあったと思う。それは確実にあったと思う。お母さんにはそういう娘を持つ友人がいたから、自分もそういう体験をしたかったんだと思う。だから私が家庭科で作ったデザインの古臭い、私が選んだ赤地に白水玉の、お母さんから見るとダサい布、で出来たシャツを嫌悪したんじゃないかな。なんでアタシの娘が作るモノはこんなにダサいわけ? みたいな。

その感覚ってやっぱり、「娘で得しよう」って感じだと思う。「あわよくば」感。「どうせなら」感。
せっかく娘がいるんだから、人に自慢できることやってくれないと損。みたいな。
子供に遺恨を残す親たちって、この「損得」勘定(感情)が子育ての基礎になってると思う。子供に、「自分」の得になるような行動をさせようとする。その場合の「得」って「自分の心が満たされる」という、人間の業の中で一番下等で下劣でオナニーな、しょうもない非生産なことなんだけど。

遺恨を残さない親って「子供が生まれたこと」「生きてること」でもう満たされてるから、子供の小さな言動に「損得」を見出さないような気がする。周りの「遺恨なし親子」を見てると。
でも「遺恨残し親」は、ちっさいちっさい日常にも、常に常に「満たし」を求めちゃうんだよね。子供に。

最近、赤ちゃんをお世話してると、赤ちゃんって要求がストレートだなって思う。
うちの子は、「おなかすいた」と「おむつ」の時よりも、「暑い」と「眠い」の時のほうが、より強く泣く気がする。不快度が高いんじゃないかと思う。最近は「あれが取りたいのに手が届かない」とかで「う〜!」って不機嫌な声を出す時も出てきたけど、まだ生後半年だから、基本的にその4つでしか泣かない。
「不快だ!」ってことを、あれだけ全力で、喉がちぎれちゃうんじゃないかっていうくらい、全身の力を使って泣くことで表示するのって、すごいと思う。
対処が間に合わなくて泣き続けてもらうしかないときとか「超うるせ〜!」って思う時もあるけど、自分の欲求をちゃんと周りに表示できるなんて、赤ちゃんという人たちは偉いなーって思う。

私は旦那と喧嘩すると「ギエエエエ〜〜〜!!」ってキレるときがまだ年に2〜3回くらいあるんだけど、あれも結局は「不快だ!」って泣いてるのと同じだと思う。ありあまる怒りとか、その場にそぐわないほどの暴言とか罵声とかイヤミとか陰湿なイジワル、全部赤ちゃんの「泣き」と基本的には同じだと思う。「わたしは不快だ!」っていう意思表示。
赤ちゃんのときは「不快=泣く」だけの単純作業ができるのに、大人になるとそれがものすごくゆがんだものになって、「わたしは不快だ」って思ってるだけなのに、「(不快にさせた)相手が悪い」みたいな言い方してみたり、「わたしはべつに不快ではありません。あなたのことを思って言っているだけです」みたいな顔してみたり、いらない技ばかりが身についてしまう。

私に「そんなもん着るな」と冷たく言ったときのお母さんは、41歳くらいだった。今考えても、やっぱりその行動に全く同意できない。人が楽しそうにしてるのをヒネリ潰すイジワルさしか感じない。その母の姿を「(私の理想と違う〜〜!!という理由で)全力で泣いてる赤ちゃん」に変換してみたら、意外と怒りがおさまってきた。
中学生のときに、母親のことを「赤ちゃん」と思うのは難しいけど、33歳になって本人と離れていればけっこうできる。これから何か理不尽な目に遭ったときはとりあえずこれでいこうと思った。

「母がしんどい」を読んだ人が、「親と離れたところで過去は消えない」と感想を書いてるのを見た。そうかなーって思ってたけど、いまははっきり言える。過去(のいやな気持ち)は消せる! 消せるっていうか、上書き更新できる、って感じかな。本人と離れるのが大前提。こういうこと書いてるけど、私は離れてからお母さんのこときらいじゃなくなってきた。だからと言って本人とは仲良くはできないけど、私の中にある「母に似た部分」がきらいじゃなくなってきた。
今まで年賀状とか書いたことなかったんだけど、娘の写真入りの年賀状は送りたいな〜って思ってる。
ただ住所が知られるのは困るので、写真入り年賀状をプリント屋さんに頼んで作るのに、どうしよう。黒ペンで消せるかな〜。住所が知られたからって母が何かする可能性は今はもう低いけど、それだけは絶対にダメ。体が自然にそういう指令を出してて、それに従ってるって感じ。「母が住所を知っている。何かしでかされたらどうしよう」っていう不安を持つのがイヤだから、「住所を知られてないということにする」っていうのだけは守ることにしてる。んだなーって自分で思った。

世間は「親にされたことをいつまでも恨むなんて子供っぽい」って言うけど、「過去にいやなことをしてきた人」と、何事もなかったように付き合うなんて、誰もできないし、する必要ないと思う。それが他人(恋人・友人)だったら、「そんな人と離れられない自分が悪い」とか言われる。自分も大人になってるのに、親からいつまでも「不快だ」と赤ちゃんみたいに泣かれ(イヤミ、暴言、意味不明な言動など)て、でも自分が「不快だ」と泣くことは許されない。なんて、おかしいよね。
posted by tabusa at 07:26| Comment(11) | ノノシット関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月12日

イベント

「毒母ミーティング2 〜信田さよ子先生をお迎えして〜」
今週の木曜日ですー。予約は完売しました。当日券は19時20分から受け付けです。
詳細↓
http://www.loft-prj.co.jp/lofta/schedule/per.cgi?form=2&year=2012&mon=9&day=13

「母がしんどい」は、今月に入って4刷が決まり、そのあとすぐに5刷が決まりました。
感想なども毎日のように戴けてうれしいです。みんな、同じような体験をして、同じような心理状態になっているんだな〜って思います。
たま〜に、私へ直接「あなたより私はマシなのでよかったです(笑)」みたいなことをメールしてくる方がいます。「つらい体験」は書いてなくても、そういうメールからは、「私もいま『母がしんどい』の真っ只中です」という人からのメールよりも苦しそうな息遣いが伝わってきます。つらい、とか、嫌だってことをハッキリ自分の言葉で言えている状態のほうが、心身には快適だと思う。
自分の問題に向き合うっていうのは過酷だけど、死にはしないので大丈夫だと思う。むしろ、自分の問題に向き合うのは「自殺」から一番離れた行為じゃないかと、今の私は思ってます。その問題に向き合うことを恐れて(相当恐いからなかなか勇気が出ないけど)、見ないことにして他のことを原因だとしてしまうと、永久に苛立ちを他人へぶつけ続けなきゃいけなくなる。生きていくうえで、それが一番間違っていることだと思う。わけもわからず怒っちゃいけない。ぜんぜん怒らない、っていうのもちょっとちがう。自分が怒るべき問題にしっかり怒る、っていうのができるようになるのが、あと50年くらいかけてやる私の課題。未だ八つ当たりと正統な怒りの区別がつかない。

今年の3月、「母がしんどい」発行したときに娘が生まれて、半年しか経ってないけど、娘を持ったことで自分の「娘」時代の記憶や感覚がどんどん消えていく。消えてくだろうと思ってたけど、ここまでとは思ってなかった。「母がしんどい」を発行したから、そういう話を人とする機会があるから、かろうじて思い出してる、っていう感じ。「母親」という立場で、ラクになれることはないと思う。気楽になったり自分はダメだと思ったり、「自分はいい親だ」と自惚れたり楽観したり絶望したり、そういうグルグルした感じがちょうどいいと思う。
これは、人の親になったから、っていうんじゃなくて、10代の時も20代の時もそういう風に生きるのが真っ当だったんだ。だけど私はそれができなくて、そんな生き方を知らなかったから、全てにおいて「私が悪い」ってことで処理してた。「私以外の人はみんな正しい。その代わり間違ってるやつは『間違い』しか持ってない」ってことにして、生活してた。
最近は「あの人もこの人も人間なんだ(世界には正しいも間違いもないんだ、自分の『正しいと間違い』は自分で決めていいんだ)」って感覚がある。「私が悪い」に染まっていた時は、自分を追い詰めてすぐに行き場がなくなるので「最悪の事態になったら死ねばいいや」っていうフレーズでやりすごしてた。実際に死ぬことはまったく考えてないけど、このフレーズを唱えないと落ち着けなかった。私はリストカットをしたことがないけど、同じ思考なんじゃないかと思う。ちょっとした失敗(仕事の電話がとれなかったとかそのレベル)の度に、自分を『殺す』生活は、心身への負担がとっても大きい。あの頃は、いつも具合が悪かった。
「私が悪い」は、よくない。
posted by tabusa at 03:39| Comment(2) | ノノシット関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする