2013年04月07日

おすすめのものばかりです

この前の記事にコメントしてくださったsamuneさん、「断捨離で『母の呪縛』を解く」の私の漫画を読んでくださってありがとう!

「婦人公論」の別冊ムック「断捨離で『母の呪縛』を解く」が発売中です。
私も、断捨離と母の呪縛は関係がある、とずっと思っていて、インタビューなどで「いますぐに母親と縁が切れない人が、自分を保つためにすると効果的なことは?」と聞かれるときはいつも「お母さんにもらったもの、お母さんを思い起こさせるものをとにかく全部捨てる」と言っていました。
そういうエピソードは「母がしんどい」にも出てきますが、より詳しくその部分を、4ページの漫画に描きました。「断捨離で『母の呪縛』を解く」に載っています。

婦人公論増刊 断捨離で「母の呪縛」を解く 2013年 4/10号 [雑誌] [雑誌] / 中央公論新社 (刊)

これは本当にすごい本です。参加できて大変にうれしいです。
ぜひぜひぜひぜひ読んでみてください。

そして、私はいま、過食症の治療に自分なりに取り組んでいます。これは、「記憶」とか「思い込み」の断捨離なんじゃないかなーって思ってます。あと、「誰かのせいにしてはいけない」「自分が至らないと思わないといけない」という、世間の決まりみたいなものがありますよね。なんでもかんでも自己責任主義社会。この決まりとの戦いも含まれていると思います。
過食症のことは、これからコラム「女印良品」でちょっとずつ書いていけたらいいなと思っています。
「女印良品」は無料で読めます。親子の呪縛についてもたまに書いています。
http://www.lovepiececlub.com/mejirushi/

5月の「毒母ミーティング4」(http://mudani.seesaa.net/article/351416990.html)は、予約は残りあと数席だそうで、当日券も出ますので、よかったら来てください。サインとかしますので、声かけてくださいね。

他のイベントもまた予定がありますので、お知らせします。
私はいま、過食症に立ち向かうことができて、なんだかとてもうれしいです。前は、認めることもできなかったから、こんな風にブログに書いたりもできなかったし、それができたというのがうれしい。

あと、「glee」というアメリカのドラマがとても面白いです。コメディだけど、人の尊厳についてをテーマにしたドラマ。
“自分にとって毒になる人”や“世間”と戦う、というシーンもたくさん出てきます。シーズン2の「グリー式ハッピーウエディング」の回もすごく見て欲しい。

一番私が見て欲しいのは、シーズン3の「イケメンの兄」という回です。
自分を振り回す人を断ち切る決意の歌を、ブレインが歌います。
クリスティーナ・アギレラの有名な恋愛の歌だけど、gleeについている和訳がすごくすごくいいです。勇気が出るよ。
お兄ちゃんがみんなに絶大な人気があったり、そのお兄ちゃんの顔がたくさんのモニターに映って頭を抱えるところとか、そこでパンチしまくるブレイン。感情移入しまくった。本当にすごくいい。

【その歌詞、ここに書いちゃう】
苦しめられたから 嫌ってると思う?
むしろ感謝してるよ
僕は強くなれた

あんたは本物だと 思い込んでた
実際は偽物だ もうウンザリだよ
いつも一緒に 行動してたけど
遊びは終わり あんたは恥知らずだ

奪われ だまされ 恨んでると思う?
とんでもない その読みは大外れ
おかげで自分の 打たれ強さに気づいたよ
感謝しかない

強くなったし やる気も出てきた
知恵もつけたし 戦う人間になれた
のみ込みも早くなり 図太くもなれた
頭もさえたし おかげで 闘志に火がついた

信じてた僕を 残酷に踏みつけたね
僕は本当の姿から 目をそらしてたんだ
あんたは偽の世界で ウソを隠してる
でも今に分かる 僕は止められない

僕は戦い続ける 止まらない!
後戻りはしない もうウンザリだ!

AH〜!(モニターに映るお兄さんにパンチパンチでシャウト!)

おかげで闘志に火がついた
機転も利くし したたかになった
賢くもなれた
全部 あんたのおかげだ
========================

それで、ブレインはもう1曲、お兄さんとデュエットするんだけどこの曲もまたよい。すごくよい。絶縁の歌!
Gotyeっていう人たちの、Somebody That I Used To Knowっていう歌。 これももともとは失恋の歌らしいけど、gleeの和訳だと、しんどい親とこんがらがってる関係の歌としても聞ける歌詞になってます。

【その歌詞も書いちゃうね】
一緒にいた頃を思い出す
死ぬほど幸せだと言ってたよね
もうダメだと気づいた時
お前は“友達でいよう”と
俺は離れられてうれしかった

でもあんまりな仕打ちだ
何の縁もなかったふりか
愛は要らないけど他人顔には傷つくよ
そこまで冷たいなんて
電話番号まで変えたよね
でも もういいさ
ただの“昔の知り合い”だ

(お兄さんをにらんで怒りながら歌うブレイン)
いつも傷つけられる一方だった
自分のせいだと思い込まされて
そんな暮らしは嫌だ
あんたの言葉に左右され
最後には“水に流そう”
これ以上振り回されるもんか

(お兄さんのパート)
だからって冷たすぎる
何の縁もなかったふりか
愛は要らないけど他人顔はやるせない
そこまで無視するとは
電話番号も変えたよな
でも もういいよ
単なる“昔の知り合い”だ
お前は過去の人間だ
昔の知り合いでしかない

(2人で)
もう終わった関係さ

=====

ブレインが思いをぶちまけると、お兄さんが分かってくれて和解、っていうのは(私にとっては)ファンタジーだけど、理想だよね。でもお兄さんはやっぱり相変わらず、っていうのもいい。
「glee」の中の“アメリカの様子”は、日本とソックリだけど、日本ではこういうドラマは絶対にない、というのが、まったく違うところだなと思います。
posted by tabusa at 10:34| Comment(3) | ノノシット関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月20日

アドバイス餓鬼

NHKオンデマンドで「カーネーション」を見終えた。“毒親”っぽい感じのとこがあったので、それについて書きます。
主人公の糸子の孫・里香(16歳くらい)が、母親である優子を煙たがって、家に住み着いてる。優子が過干渉で支配型な母親であるというシーンはちょくちょく出てきた。第133回で里香が告白するシーンが心に残りました。

糸子「なにが気にくわへんねん? こんなに上等な服こないようさん送ってもらってんのに。せっかくええ高校入れてもろて、なんで行かれへんようになんねん?」
里香「なんか、半年前くらいから急に…ママが買ってきた服もママが選んだ高校も、絶対やだって思うようになって、ママの顔見るのも…ママの声聞くのも、思い出すのもいや」
糸子「そない嫌いか?」
里香「……(首を振る)。嫌いじゃないけど、どうしてもいやになった。冷たくしたら可哀相だって分かってるのに、優しくできない。どうしても」(泣き出す)

そんで、ばあちゃんである糸子がこう言うんですよねー。
「よう分からんけど、それは、あんたが大人になろうとしてるんやろうな」

なんか、里香の言ってることが丸分かりっていうか、まんま10代の時の自分の気持ちそのままで、「ママが選んだ学校」に通うことを拒否する里香はえらいなーと思うし、「ママが選んだ学校」にちゃんと通ってた私もえらかったなーと思った。
そんで自分はこういう「なんだか分からないけどママに対して虫唾が走る」というようなことを、母親以外の大人に言ったことはなかったと思う、10代の頃はたぶん。だけど大人になってから言った時、目上の女性たちは「そんなこと言っても仕方ないでしょ」とか「まだそんなこと言ってるの?呆れた」とか「育ててもらったのに甘えるんじゃないよ」とか「親っていうのは、乗り越えなきゃいけないものなの」とか、叱咤or説教を言われた記憶ばかり。
そういう人って、「餓鬼」状態だと思う。弱ってる人を「世間体」や「常識」を使って「アドバイス」することで「自分はすごい人、マトモな人、ちゃんとしてる人」感を存分に味わう、アドバイス餓鬼。そういう場面でしか自分自身を満たせないので必死。必死で弱ってる人を叩きのめす。弱ってる人が大好き。
 相手の「報告や感想」を「質問や相談」に摩り替え「そういうもんなんです(笑」とか「心配しなくて大丈夫!」とか頓珍漢なアドバイスをする、「よし、よくがんばってるね!」とか急に先生みたいな口調になって、相手にそれをやるように誘導したのは自分、みたいな感じになるのもアドバイス餓鬼に含まれる。アドバイス餓鬼はいつもいつも餓えている。人の発言の中に、自分が潜り込める隙をずっとずっとお腹をすかせて待っている。
<人を助ける仕事(カウンセラーとか保健系)のアドバイス餓鬼に出会うと、こちらが助けて満たしてあげている構図になり、餓鬼に魂を吸い取られて無駄に疲れてしまう>私は自分の周りの大人はアドバイス餓鬼だらけだったなーと振り返る。そして20代は自分もアドバイス餓鬼さが強烈だった。今もあるけど、あの頃の私のアドバイス餓鬼さはすごい。アドバイス餓鬼の状態は、話を聞いたとたんに親身になりすぎたり感情移入しすぎたり、そして相手が安定していないと自分も不安定になるから、相手が不安定なことに不安と怒りがバッと湧いちゃうっていうのもあるんだよね。「しっかりしてよ(あたしまで不安になるじゃないの)!」っていう感じ。

思い出すと、背中を丸めて地を這うようにアドバイス餓鬼たちがうごめく中に、ちゃんと人の形をして凛と立ってる人たちがちらほらいる。
私、学校の先生とか大人で仲良しな人とかいなくて交流とかぜんぜんないんだけど、なんとなく、あの人はあの時、ちゃんと私に向き合ってくれたんだな、って感じに思い出す時がある。大人として、人として扱ってくれたという感じかな。

「よう分からんけど、それは、あんたが大人になろうとしてるんやろうな」
って、すごく心地いいなと思った。「よう分からんけど」って相手を理解しすぎず適度に突き放す感じ、私もやることあるからあんたのことまではできないけど、な感じ。認めるでも否定するでもない、曖昧な感じ。これくらいでいいんだよなって思った。
posted by tabusa at 08:50| Comment(3) | ノノシット関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月17日

すす(んでうら)もう

 先日、メールフォームに「子供の頃から姉と差別されてきた」という女性からメッセージが届いた。教育熱心な母親は、期待通りの進路に進み、希望通りの職業に就いた姉には学費や教育費を惜しみなく使うが、妹である自分にはとても冷遇だったそう。どういう風に差別されてきたか、が分かりやすく書いてあった。それを読んで私は「ひどいな、可哀相だなー」と思った。本人は「仕打ちはあまりにいつものことで、最近『正直どうでもいい』と思えるようになりました」って書いてるけど、そう思えるように今も踏ん張ってがんばってるんだなーと感じた。

 世間では、「悲しむ姿」というのは煙たがられる。「悲劇のヒロインぶるな」とか「お前だけがつらいわけじゃない」とか言われがち。「子供の頃のつらかった思い出を悲しむこと」に対しては特に、厳しい。
 「大人なんだから子供の頃のことなんて水に流すもの」とか「誰にだってそんな思い出はある」とか「大人だったら、気にしないようにしなくてはならない」とか、そういう“当然”が蔓延してる。

 大人になったからって忘れられるのではなく、大人になってやっと「つらかった子供時代の出来事」にガチンコで向き合うことができるんだと思う。子供の頃は生きるのに必死だから、振り返ることなんてできない。家を出たくたって親がいなかったから生きていけないから、親の顔色を伺い、「親を嫌う」ことに罪悪感を感じ、悲しみを100%で感じないことで、自分の精神、そして生命線を保っていた。
 ないことにして自分の感情に蓋をして走り抜けて、自立した時、急にその蓋が開いたりする。その時こそやっと、泣きわめきながらそれを噛み砕いて全力で嗚咽しながら飲み込んで、胃痛と戦いながら消化する、という作業に取り組めるんじゃないだろうか。そのうちにほんの少しでも最後は栄養として吸収するものを感じるような感じないような、曖昧な気持ちになったところでやっとウンコとして出てくる、それを水に流すことで、やっと「忘れる」が始まるんだと思う。

 親や誰かや何かを恨む感情っていうのは、まあ、美しいものとは言えないけど、それがちゃんと形(感情や体の不調などによって)として湧いてくるということは、「『可哀相だった頃の私』の悲しみをしっかり感じることができるほど余裕がでてきたよ、大人になったよ」という自分からのお知らせだと思う。むしろおめでたいことだと思う。せっかく自分が知らせてくれてるのに、「悲劇のヒロイン」だの「甘えてる」だの「大人なのに恥ずかしい」だのという世間の声を優先して足蹴りになんかしたら、それこそ本っ当に、可哀相だ。

 「大人だったら昔のつらい思い出は乗り越えてるもの」なんて全くのウソ。こんなことを平然と言う人がいたら(結構いるけど)、そういう人のほうが怪しい、と私は思う。口に入れてもないのにどうやってウンコで流すんですか。

 メールの送り主さんは、「娘を『姉』という立場にしたくない思いから、2人目を出産することを躊躇しています」という。そして「このトラウマを解消するにはひたすら忘れていくしかないのでしょうか」と書いていた。
 私は、娘が生まれて10ヶ月経つけど、娘に向かって自分のことを「ママだよ〜」とか「お母さんだよ〜」って言ったことがない。妊娠中もお腹に向かって思ったこともない。「私はあなたの母である」と名乗ることがどうしてもできない。それは、メールの送り主さんと同じように、「自分が誰かにとっての『母』という立場になることに躊躇している」ということだと思う。自分では意識していない部分で、よっぽど「母親」という立場に対して強烈な疑念を持ったままなんだと思う。
 そういうことを頭で理解したうえでも、娘に対して「ママだよ」の4文字が発言できない。「ハウルの動く城」で主人公が魔女に「秘密を人に言うことができない」という魔法をかけられるんだけど、言おうとすると「あうあう…!」ってなって、どうしても言葉が出てこないの。本当にああいう感じ。「ママだよ」って言おうとしても、「あうぐ…」ってくちごもっちゃう。

 それを、やばいかなーって思うけど、あんまりやばいとも思ってない。いつか言えるようにならなきゃ、ともあまり思ってない。もし困ることがあったら、その時対応すればいいかなと思ってる。メールの送り主さんも、そういう体験をしてきたんだから、自分の子を「姉」という立場にしたくないっていう発想を持ってしまうのは仕方ないと思う。親で苦労した人も親と仲が円満な人も「自分がこういう目にあっていて、こう思ったから、子供にはこうしたい」っていう発想の流れは同じだと思う。それを、ちゃんと自分の問題として捉えていれば、特に問題はないと思う。
 問題なのは、「私はお母さんにコントロールされてるのがつらくて、だから自分が母となってあなたをコントロールしたくないから『ママだよ』って言ったことがないの」みたいに、自分が「ママだよ」と言えないというだけのことを、「あなたのためにやったことだ」的に問題の根本を転嫁して、恩着せや美談のツールとして使用するのはマズイと思う。こうなって自分の問題をさも相手の問題のように捉え始めたりしちゃうと、事態が不必要にこんがらがりやすい。自分はこういう問題をかかえている、という自覚を持っていれば、それによって困ったことが生じても、乗り越えていけるんじゃないかなと思っています。
posted by tabusa at 21:44| Comment(3) | ノノシット関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする