2015年10月12日

洞窟オジさん

ドラマを見て、気になりすぎていた「洞窟オジさん」を買って読みました
両親からの虐待にたえきれず13歳で家出して、そのまま一人で犬と一緒に洞窟でサバイバル生活してた人のノンフィクションです。洞窟オジさんはいま70歳くらいで生きています。


小学館文庫のを読んだんだけど、ドラマ化した演出家の人が解説を書いてました。
本編はもちろん面白いんだけど、この演出家の人の言葉がすごい、アッ!って思いました。

洞窟オジさん(加村さん)は、13歳からマジでたった一人で山で暮らすわけです。文字も読めないし、お金の数え方や、時計の見方も知らなかった。とにかく両親のいじめがひどかったから、家に帰ろうとは思わなかったんだって。

それでも、両親のお墓参りに行ったことがあって(確か60歳すぎてから)、そのことが本編に書いてありました。
その部分をドラマ化するために、演出家の人は洞窟オジさんに話を聞いたんだって。
抜粋します

「墓参りされた話を聞きました。ぼくは安易に『乗り越えた』的な発言を期待してました。ドラマを作る上で収まりがいいからです。全然違いました。加村さんは『蹴飛ばしてやろうかと思った』と言いました。その目はこれまででいちばん鋭い目をしていました。胸に刺さりました。収まりのいい話を期待してた自分が恥ずかしくなりました。」

ああ、そうか、と思った。
親の話は、親へのつらい思い、苦しい記憶、悲しい感情、ぬぐえない恨みの念、それらを、世間が拒否するのって、こういう感情なんだと分かった。
そのほうが「収まりがいい」からなんだね。

つらいことが全くなかった人の話よりは、ものすごいひどい目にあった人の話のほうが面白い。
そのつらいことを、今は乗り越えた、許せた、という結末のほうが、落ち着いて鑑賞できる。
そういう感じ。
だからドラマの母娘(毒母)モノって、すごくリアルなのに、最後だけ急速に突然、それまでの人格がいっぺんに変わってそれまでの遺恨も全くない状態に突如一掃して「和解」になったりするんだなあ、と思った。

この「収まりがいい」は、そもそも虐待の根本にもありますよね。
何が起こっても子どもに「お前が悪い」と言っておけば大人達の摩擦が軽減されてうまくまわる感じ。
「この子が悪いんだから」という理由にして子どもを殴ったり怒鳴ったりする自分を正当化する感じ。
いらないけど捨てるのが惜しいものがあったら、段ボールにつめて子どもに送りつける感じ。

そのほうが「収まりがいい」わけですね。
そして、その苦しさを表に発しても、「親ってそんなもん」「いつまでも恨みを言ってるんじゃない」と言われる、それは、そのほうが聞いている人の感情の収まりがいいだけなんですよね。

他者(親)の「そのほうが収まりがいい」の渦に巻き込まれると、他者(他人)の「そのほうが収まりがいい」の渦に巻き込まれやすくなる、とも言えるんじゃないかと思いました。

それは他人の望むストーリーの中での「収まりのよさ」なのである。
そんなもんは、自分にはまったく関係が無いから、無視してよかったんですね。

家に帰る気なくて13歳から山で一人でイノシシ捕獲してさばいて食べたりして生きてきた洞窟オジさんにそれでも世間は「その年になれば、もう親を許したんでしょ?」という期待を込めてくる。
世間とはそういうもの、と思ってしまったほうが、「収まりがいい」な、と思った。
ただ、完全に世間の持つ勝手なストーリー、こちらとは無関係な妄想なので、それに合わせて行動する必要は一切ないと思った。つまり、自分にいやなことをした人を許せなくてもまったく問題ない。
「洞窟オジさん」読んでそう思いました。
posted by tabusa at 09:14| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする