2009年07月22日

白と黒のしましまの人

〔7月初旬のマイケルうつの時期に書いてアップしそこねた日記どす〕

マイケルのせいにはしきれず、まだきもちはくらい


一旦くらくなると、昔のいろいろなうらみが湧き出てくる。
これはおそろしいことです!
あれも・・・これも・・・と、たいていはノノシラーへのことなんだけども、そうやって過去をくらく思い出してるだけならいいけど、だんだん、現在のことがふあんになってくる。
自分がこんなふうに人にされたことをぐちぐちうらみを持ってるんだから、誰かもわたしをうらんでるのでは・・・と、転換されていくんだよね。
そうすると、他人の一挙手一動足というものが気になり始め、しかも、ああ、これはわたしのことがやだからメールの最後に「では失礼しました」とか書いてるのかしら とか、思うようになってくる。


んなわけねーんだよ、お前はいまおかしいんだよ(マイケルが死んだ余波で)
と自分に言い聞かせてみてやっと落ち着くけど、ちょっとハラハラしてる。
これは他人とのコミュニケーションの話のようであって、全くもって別次元の、自分の脳の中だけの変化の話であります。


つまり、誰かがわたしのことを本当にいやだなと思っていても、明るい脳のときは「ん、でも、しかたないよね」って思えるのに、暗いときは「ああ〜〜いやだ〜〜なんとかしたい〜〜信用を取り戻したい〜〜誤解なんだ〜〜わたしがいやなやつというのは誤解なんだ〜〜〜」
と、相手を言いなりにしてやりたい気持ちが働く!
そんで、とりあえず相手から「田房さんのこと嫌いなんかじゃないですよ」という内容のアクションをもらうことでやっと落ち着ける。そのアクションが欲しいがタメに、相手を誉めてみたり好きと言ってみたり、相手がそういうアクションをするように誘導する。(それは相手にとってとても唐突で脈略がないことだったりする)
こういうときのこういう人は、超焦っている。すぐ、いますぐに確認したがる。即効で確認。はやくはやく。相手の気持ちを尊重してしばらくほっておくとかができない。自分が耐えられないからである。


相手はもう「わたしも田房さんのことたいせつなゆうじんだとおもってますよ」と言うしかなくなってるから、そうアクションする。
それで自分はとっても安堵するんだけど、それはとてつもなく一時的で形式的なことで、実は相手はそのとき、『田房さん』の強引さに辟易しているのである。これからちょっと距離を置こうかなとか思っちゃっているのである。
なのに、その時『田房さん』は「よかった〜 ●●さんには嫌われてないからとりあえずオッケー♪」みたいに、頭の中の友人リスト表の欄にチェック入れたりしてるのである。


対人関係を、そうやってマニュアル化することで、自分はラクになっているが、本当はとんでもないことをしでかしている。他人を自分のマニュアルで動かしているということは、相手の気持ちやなんかは無視しているということである。こちらは「仲良くなった」と思っているとき、実はそのたびに信用を失くしていっているのである。
これは、気づかない人は気づかないまま、仲良くしてくれる。しかし、気づかないということは、それほど自分のことを重要視していないということでもある。自分のことを真剣に考えてくれる人は、真剣になるほどつらくなってきて、去ってしまう。つまり、適当に付き合う人しか周りに残らなくなる。結局、自分の一番望んでいる「心のつながり」がずっと誰とも持てないまま、日々が過ぎていく。
そこで毎日うまれる言いようのない寂しさ。
しかし、本人は自分が「寂しがっている」なんてこと、微塵も気づいていない。むしろ、自分は家族がいて友人がいて、恵まれていると思っている。
寂しさを埋めるためにまた、周りの人たちに「あなたをあいしてる」と言わせようと毎日奮闘しているくせに、自分は他の人より恵まれていると思っているのである。
これは、世間体に頭が支配されているからである。社会のいろいろなことをスペック(金があるか、健康か、仕事はあるか、結婚しているか、幸せそうに見えるか、等)で判断しているせいである。そうやって考えると、一定の日本人のスペックが揃っている自分は、寂しくも不幸でもあるはずがないのである。
でも、本当は、周りから見ると引くほどに、愛情に飢えている。
つまり、自分自身の「寂しい」という気持ち自体を無視しているのである。まさか、自分が愛情に飢えているなんて、夢にも思っていない。


こういうときのこういう人は、妄想が激しい。
「嫌われているのでは」という思い込みも激しい代わりに、相手の単純な言動によって「好かれている(嫌われていない)」と簡単に断定する。つまり、自分の感情が『不安(嫌われている)』と『安心(好かれている)』の2つしかないのである。(精神学用語でいうとスプリッティングだね)
これは、そのほうがラクだからである。
その人の、「田房さんのこときらいじゃないけど、ちょっと距離をおきたい」という感情を待っているのがつらいのである。「田房さんにメール返すの忘れてた」とか事情を汲む余裕がないのである。好きか嫌いかだけはっきりしてほしいのである。
だから、「嫌いなんですか」とかわざわざいらんこと聞いてしまったりする。そのうちに本当に相手は嫌いになってきて、「嫌いですよ」と言われる破目になる。(言わせる破目になる)
妙にホッとしながら、ものすごく傷ついている。全くもってむだな傷である。だから、こういう人は、余裕のある人よりも、苦しみやストレスが多いのである。そしてまた苦しみのスパイラルへ突入していく。


そして、他の人にそのつらい気持ちを撒き散らし、同情してもらったりすることでとりあえず解消する。
こういう人は、「常識」とか「非常識」とかの言葉を多用する。自分を傷つけた相手が「非常識な人間か」どうかを第3者に判定してもらいたがる。「あいつが私にしたことは、社会的に間違っている」と判定することでしか、相手に制裁を与えたと思えない。つまり納得できないのである。本当はそんな問題ではなく、どちらかと言えば、非常識なのはこっちのほうだったりする。だけど、相手を「非常識者」にさせようと、目を血走らせる為、第3者はとりあえず「そうだね」と言うしかない。自分ひとりの心の中で判定することはできず、誰かに聞かないと安心できないのも、こういう人の特徴である。


だからそこで、「そうでもないよ、あの人は非常識ではないよ」と第3者に言われてしまった場合、こんどはその第3者を「非常識な人」として頭にインプットし、また別の人への「相談」という名目で問題を攪拌させていく。知らずのうちに、どんどん敵が増えていっている。
そこではそのことしか考えてないから必死だが、それは悪口という形で人の心に残ってしまう。その自分がした言動があとあとになって、自分の意図しない方向に動き出してしまったりする。そうなるともう遅い。


とにかく、自分で考えて落ち着く、ということができないのである。自分のことしか考えていない割りには、常に他人ありきで、他人の言動に一喜一憂している。自分が振り回しているようでいて、他人に振り回されてもいる。
そんなふうに人とグチャグチャといろいろ揉めてしまうのに、一番哀しいのは、そこに生きた感情の行き交いが、まったくないことである。すべてがただの、記号化された言葉だったり、一般化されて最早うそ臭いだけの愛情論だったりする。
大方の場合、大きな声で自分の考えを主張している人に見える。だが、実は自分の考えなど一切持っていない。自分の都合のよいように解釈した一般論を、常に他者に確認しているだけなのである。



このメカニズムを解消するには、これを理解して、そして自分の妄想(この人に嫌われてるんじゃないか)に耐えるように訓練していくしかない。それには、自分のことをよく理解して、自分の好きなような環境(ストレスのない)を自分に与えなければいけない。強くならなければならない。強さとは、自分の心を見つめ、理解し、一人で苦しみを忍耐し、乗り越える、つまり自分で自分の心を癒すことである。(なんかだんだん仏教みたいになってきちゃった)
だが、こういうときのこういう人は、「強さ」の意味を履き違えている。強いということは、自分の思っていることをハッキリ人に言うこととか、マトモとされる職業に就いていることだとか、結婚していることだとか、思っている。だから自分にむやみにキツイ課題を与えていたりして、ぜんぜん向いてないのに「会社員でいなきゃいけない」とか思ってしがみついていたりする。
何よりもまず世間体に負けている。


常に万時エブリタイムストレスフルである。向いていない場所には、自分と合っていない人しかいない。合っていない人とずっと一緒にいると、愛情が枯渇してくる。その反動で愛情をくれそうな人に愛を乞いまくっちゃうのである。乞うても乞うても得られず、空回りして、ストレスを他人に撒き散らしていく。無間地獄である。向いていないことをし続けたり居続けたりするのは罪であると思う。
でも、ストレスのない環境を自分に与えること、が、一番難しいことだったりする。


くらくなるのはおそろしい。こうしてこんな書かなくてよいことまで書いてしまうのであります。


posted by tabusa at 20:59| ノノシット関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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